ホーム大学案内理事長、学長の新春ごあいさつ(令和4年1月1日)
理事長、学長の新春ごあいさつ(令和4年1月1日)
理事長
― 年頭の御挨拶 ―

公立小松大学 理事長 石田寛人新年おめでとうございます。
 公立小松大学は、新型コロナウイルスに対応して、安全な大学運営に努めてきており、お蔭さまで本学が感染拡大の場になることなく、ここに新年を迎えることができました。また、この年度末、第一期の卒業生を送り出す予定で、制度上の完成時期を迎えます。これも実に多くの方々からの御高配、御支援の賜物であり、厚く御礼申し上げます。
 4月には「サステイナブルシステム科学」に取り組む大学院を開設します。この大学院は、本学の生産システム科学部、保健医療学部、国際文化交流学部のいずれともつながっており、これによって、本学の教育研究活動を更に活発化し、高度の学識を備えた人材を世に出して、国家社会と地域の要請に的確に応えていく所存です。
 私は、小松市役所近くの旧宅から大学に出勤していますが、コロナ下での巣籠もりの弊害を減らすために、時に早朝の散歩をします。そのコースに、後に集義堂となる小松学問所が所在したとされる場所があります。それを示す標識はありませんが、そこを通るたびに、江戸時代後期に、学問の重要性を認識して自分たちで学問所を創設した先人の先見性と行動力に対する畏敬と感謝の気持ちが脳内に拡がります。同時に、「先人を尊ぶ心は嬉しいが、『昔の人間は素晴しかった。昔は良かった、今の人間は駄目だ』などと言わず、今を生きることに全力を注ぎなさい」という先人の声が聞こえるような気もします。
 人々は、その時その時を懸命に生き、自分を全うし子孫を養育しながら、良き後世を拓くべく努めてきたはずです。現在という時点は、そんな先人の努力が集積点と言えましょう。もちろん、かつて存在していて、今は失われたものは沢山ありますが、総体としての現在は、世界の進歩、地域の歩みの最も高い到達点にあると私は信じています。そして、それをさらに一歩進めるのが未来を担う人材であり、本学の学生を含む世界中の若い人々です。私達はそういう人材を世に出す使命を全うすべく全力を尽くします。そんな思いで、私はこの新年を迎えました。本年もどうかよろしくお願い申し上げます。

学長
― 2022年年頭のあいさつー『山月記』に想う ―

公立小松大学 学長 山本 博 新年あけましておめでとうございます。
高浜虚子に「去年今年(こぞことし)貫く棒のごときもの」という句があります。年が改まろうとも、ゆるがず一貫して継続すべきものがある、とも解せます。それは、本学でいいますと、学部の専門分野に対応する3つの専攻を擁し、かつ1つの研究科へと束ねた大学院「サステイナブルシステム科学研究科」の着実な前進と研究の活性化、学士課程につきましては、設置の基本理念・教育理念と高等教育「質保証」のあり方に合致したカリキュラムおよび評価方法の再検討、などが該当すると思われます。これらが縦糸、構成員一人一人の教学活動が横糸となって、この年の成果が公立小松大学らしい模様へと織りなされて行くよう期待いたします。
今年の干支で思い起こすものに中島敦(なかじま あつし)の『山月記』があります。旅人が山道で一匹の虎と出会い、食べられそうになる、が、その虎は何と人語を話し、じつは、友の変わりはてた姿であった、という物語です。主人公李徴(りちょう)は虎の姿で語ります;「臆病な自尊心」、それが 「己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えて了った」 と。「臆病な自尊心」は、正直申しまして私の裡にもある、北国の人間の特性ではないか、あるいは、中島敦は東京のご出身ですから、日本人一般に共通する性ではないか、と思われますし、大学をはじめ、日本の組織にもそういう一面があるのではないかと考えることです。現代の大学はもはや白い巨塔ではありえず、国際・地域社会に開かれた存在でなければなりません。叢に隠れ棲む『山月記』の虎のような一面が、もし大学や部局にあるなら、それは克服されるべきでしょう。
李徴は再会した旧友袁惨(えんさん)に「自分は元来詩人として名を成す積りでいた。業未だ成らざるにこの運命に立至った。今も尚記誦せるものがある。我が為に伝録して戴きたい」と30篇ほどの自作の詩を聞かせます。袁惨は感嘆しながらもつぎのように述懐します;「成程、作者の素質が第一流に属するものであることは疑いない。しかし、何処か欠けるところがある」。しかし、この欠けるところというのは何か、ついに語らぬまま、中島敦は、33才という若さで早世してしまいました。
以下は私の一解釈ですが、ひょっとすると、中島敦は欠けていない部分に気づいてほしかったのではないか、すなわち、獣性は多くの人間の中に本来あり、袁惨が「欠けるところ」と感じた、わずかな微妙な差、そこに人を人たらしめる何かがある、そう云いたかったのかもしれないとも思うわけです。「獣性」、教育にあっては、学生という素材の中の「獣性」を克服、あるいは自覚させ、「人間性」へと磨き上げることが、課題になりえるでしょう。
「臆病な自尊心」、これをどう克服するか、を考えてみますと、「臆病な自尊心」のアンチテーゼを追求、実行するのが一つかもしれません。単純に考えますと、「勇敢な公共心」ということになりましょうか。「勇敢な公共心」、これは公立大学にまなぶ学生とはたらく職員にこそ求められる姿勢であるようにも思われます。
こんなことを考えながら物した今年の書初めが図です。

書初めの画像です

下手なふざけた字ですが、自分では「寅」のつもりです。牙のような部分やとがった耳のような部分をとると、「周」という字になる。孔子が「君子は周して比せず」といった「周」です。すなわち、誰とでも分け隔てなく付き合い、けっして人をえこひいきしたり、差別したり、徒党を組んだりしない、そういう人となりを表すことばです。自らの裡にある「獣性」、それをそぎ落とそうと努力し、めざす境地として、「周」を考えてみた次第です。
令和壬寅(みずのえ とら)が、本学にとってよい年となりますよう念願しますとともに、各位と学生の皆さんのご健勝と弥栄をお祈り申し上げます。